心に残った歌

今までに心に残った歌(1970年代~)

ディープ・パープル

1981年3月21日発売
作詞:ちあき哲也 作曲:五十嵐浩晃
歌:五十嵐浩晃

 

五十嵐さんは「ペガサスの朝」が大ヒットして有名になったのですが、その次に出したシングルがこの「ディープ・パープル」でした。前から書いているように、僕が好きになる歌は大ヒットではなく中ヒット・小ヒットする歌がほとんどなのですが、この歌も例外ではありません。

 

「ペガサスの朝」はチョコレート会社のCMソングに使われたことで売れた、と僕は思っているのですが、僕からしますと、この歌のほうが断然よい歌です。なので大ヒットはしませんでしたが、それは世の中が悪いのであって、僕や五十嵐さんが悪いわけではありません。(^_-)-☆

 

実は、音楽業界にはある慣習というか不文律と言ってもいいように思いますが、それはある歌がヒットしたときは、そのヒットした歌と似たような傾向の歌を続けるという不文律です。「ペガサスの朝」は軽快なポップ調の歌でしたので、あと一曲または二曲くらいは同じ感じの歌を出すのが業界の慣習だったはずです。

 

今や押しも押されぬビッグバンドになっているサザンオールスターズですが、そのサザンでさえ、デビュー曲の「勝手にシンドバッド」がヒットしたあと2作目に似たような調子の「気分しだいで責めないで」を出しています。そして次の曲として、レコード会社からは同じ調子の歌をもう1曲と言われていたそうです。しかし、サザンはこれまでの歌とは違う調子の歌「いとしのエリー」を発表しました。この歌がヒットしたからこそ、一発屋で終わらなかったのだと思います。

 

このような業界の傾向がある中で、五十嵐さんが「ペガサスの朝」がヒットしたあとに、前作とは全く曲調が違う歌を発表したのが不思議な気がしないでもありません。僕的は、いい歌だと思いますが、業界の不文律に逆らうような歌を発表したのは、五十嵐さんの考えなのか、レコード会社の考えなのか気になるところです。

 

僕としては、どうしてこの歌が大ヒットしなかったのか、不思議なのですが、メロディーと作詞がピッタリと重なりあっています。実は、作詞も五十嵐さんだと思っていたのですが、ちあき哲也さんという方でした。この歌詞、本当に素敵です。ゆったりとしたメロディーと相まって光景が頭に思い浮かびます。この歌を聴いた人は、それぞれに自分なりの光景を思い浮かべている、と思っているのですが、おそらく「ちあき哲也」さんはどこかで似たような経験、光景を見たのではないでしょうか。

 

♪それは誰のせいでもなくて あなたが男で
♪きっと誰のせいでもなくて わたしが女で

 

そうですよね。男女がうまくいかなくなるときって、どっちが悪いということではなくて、それぞれが「男」であり「女」だからなのです。今はジュエンダーフリーなどと言われていますので、それを当てはめるなら

 

♪それは誰のせいでもなくて あなたがあなたで
♪それは誰のせいでもなくて あなたがわたしでなくて

 

と言い換えることもできるかもしれません。つまりは、人間は個人個人が違う個性を持っているからです。今風にいうなら、まさにダイバーシティでしょうか。結局は、自分と他人は違うということを認めることが大前提です。それを認めることで、「誰のせいでもない」とうなづくことにつながるのです。…たぶん。

 

♪どうしてむくわれないものが好き
♪つく傷はいつもひと色そしてこんな旅を

 

「むくわれないものが好き」ってとこが、僕は好きです。世の中自分の思い通りになんてなることのほうが少ないんだから、最初からそういうものが好きっていう発想がいいですよね。この歌詞を書いた「ちあき哲也」さんは、ほかにどんな歌詞を作ってるのかぁって調べたら、僕が知っているのでは少年隊の「仮面舞踏会」を作詞していました。この歌も普通とはちょっと感じが違った内容でいいです。この方のセンスのよさが伝わってきます。

 

五十嵐浩晃さんっていいますと、アフロヘアーが特徴なのですが、デビューへとつながったオーディションで一緒に合格した人として村下孝蔵さんやHOUND DOG堀江淳さんがいました。それぞれ懐かしい名前ですが、村下孝蔵さんにはここで紹介したいような歌がいくつかあるのでいつか紹介しようと思っています。

 

HOUND DOGのボーカル大友康平さんは現在では歌手というよりもバラエティーとかドラマでの俳優として活躍している姿を見かけるほうが多いですが、「ff フォルテシモ」の大ヒットで若者の心を掴んでいた頃、僕はちょうどタクシードライバーをしていました。ある日、渋谷から六本木まで乗せた30代半ばくらいの男性が「俺、HOUND DOGのマネージャーなんだ」って話していたんですけど、本当だったのかなぁ。

 

それではまた、次回。

大阪で生まれた女

BOROの2枚目のシングル。1979年8月1日発売
1979年5月1日、BOROよりも先に、萩原健一がシングルを発売
作詞作曲:岡山準三&BORO

 

僕がこの歌を最初に知ったのはショーケンさんこと萩原健一さんの歌です。BOROさんが歌っているのはそれこそインタネットが普及してYoutubeで聴いたのが最初ですので、発売されてからかなりあとということになります。

 

BOROさんや大阪の方には申し訳ないのですが、「大阪で生まれた女」はやはりショーケンさんの歌声のほうが素敵です。本来なら作った人のほうが歌の魅力を伝えられるのでしょうが、この歌に関しては作った人よりもショーケンさんのほうが心に響いてきます。言うまでもありませんが、BOROさんの歌声が悪いということでは全くありません。

 

この歌のほかに、作った人が歌うよりも違う人が歌ったほうが「いい歌だなぁ」と思うのは、大橋純子さんの「シルエットロマンス」です。この歌の作詞作曲は来生たかおさんとお姉さまの来生えつこさん(作曲がたかおさん)ですが、大橋さんの声と声量がこの歌の魅力を十分に引き出しています。もちろん来生さんが歌っても来生さんの魅力で十分素敵ですが、僕的には大橋さんが歌ったほうが心に響きます。

 

ショーケンさんは元々はグループサウンズのボーカルでしたが、ブームが去ったあとに俳優に転向しました。俳優としての素質も抜群で、太陽にほえろ!の初代新人刑事で一気に俳優としてブレイクしました。ちなみに、新人刑事の2代めは伝説の松田優作さんです。…言うまでもありませんでしたね。

 

この歌の魅力はメロディはもちろんですが、歌詞がなんともいえず心に刺さります。こんな恋愛がしたいよなぁ、って思って一人暮らしをしていました。えへへへ。基本的に僕は、暗くてわびしくて寂しい世界が好きなのですが、この歌はまさにピッタリの世界になっています。ウィキペディアによりますと、オリジナルは18番まで歌詞がある34分の曲だそうですが、30分以上となりますと、一つのドラマを見ているようですね。でも、飽きるような気がしないでもありません。(笑

 

たまたま先日ショーケンさんについて書いてある記事を目にしたのですが、きっかけはアントニオ猪木さんの闘病している姿をテレビで見かけたからです。あの闘魂の塊のような方が闘病している姿は感動物です。ミスタープロ野球の代名詞となっている長嶋茂雄さんにも当てはまるのですが、世の中にでて社会に影響力を持っている人が、自分が輝いてる姿だけではなく、言い方は悪いですが無様でみっともない姿も面前に晒そうとしている姿勢には感激します。

 

先日お亡くなりになった石原慎太郎さんもそうでしたが、強気でさっそうとしていた慎太郎さんが小幅でヨチヨチ歩く姿でマスコミの前に堂々とでる姿には感動せずにいられませんでした。石原さんは敵が多かっただけに、そうした姿は晒したくないはずだと思いますが、どんなにみっともない姿になろうとも、最後まで堂々と出続けていたのには尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。

 

猪木さんが闘病している映像に奥様が出ていたのですが、そのときたまたま妻に「猪木さんの奥さんって、昔倍賞美津子さんだったんだ」という話から、「ショーケンって、猪木さんの奥さんと不倫したんだから度胸あるよな」と話が展開し、ショーケンさんの最後の奥さんって「結婚してたのに、家庭を捨ててショーケンさんと結婚したんだ」という話になった次第です。

 

週刊誌記事によりますと、最後の奥様は若い頃からショーケンさんのファンで最後の最後に自分の恋を実らせたのですから、世間の常識からしますといろいろと物議を醸しそうですが、それはそれでいいのではないでしょうか。ショーケンさんを最後まできちんと看取ったのですから本望だったろうと思います。

 

ちなみに、ショーケンさんは若い頃からいろいろな女性と浮名を流していましたが、若い頃は年上の女性と、それから各年代のきれいで素敵な女性ばかりだったのですが、持てない男からしますと羨望的な生き方に見える人生でした。

 

それでは、また。

 

ひとり咲き

作詞・作曲:飛鳥涼 歌:チャゲ&飛鳥
1979年8月25日に発売

 

今回書くにあたり調べてみて知ったのですが、チャゲ&飛鳥って元々は7人バンドだったんですね。知らなかったぁ。この二人がかの有名な「ヤマハポプコン」出身ということは知っていましたが、僕は勝手に、主催者のヤマハさんが二人を組み合わせたのだとばかり思っていました。

 

2000年代初頭に人気を博したCHEMISTRYさんは、オーディションで残った人同士、堂珍嘉邦さんと川畑要さんが主催者のアドバイスで誕生したそうですが、その記憶が勝手に残っていたのかもしれません。

 

それはともかくとして、チャゲ飛鳥さんのヒット曲は「すべて」と言っていいほど飛鳥さんが作っていますが、それでも二人の仲がよかったのが不思議な気がしないでもいました。しかし、バンド時代を経ての二人デビューというのが肝だったのですね。「絶対に売れたい」という青春のほとばしりが二人の仲の良さの根本にあったのではないでしょうか。

 

また、1991年に「SAY YES」がオリコンチャート13週連続1位を獲得し、また「YAH YAH YAH」などたくさんのヒット曲を生んでいた絶頂時代は、日本だけではなくアジアでも大活躍していました。当時は各賞を総なめしていたといっても過言ではないほどの活躍でした。この頃は忙しすぎておそらく「仲たがい」をする暇もなかったのでしょう。ここでわざわざ「仲たがい」という言葉を使ったのは、のちに二人の仲にヒビが入るからです。

 

コンビと言いますとお笑い芸人みたいですが、二人一組で出てきて、途中から解散ソロになるケースのほとんどは「仲たがい」です。そして、そのほとんどの理由がヒット曲を作る人とそうでない人のすれ違い・軋轢です。あのビッグバンド「オフコース」でさえ、僕が最初に聴いていた頃は「二人組」、おしゃれにいいますと「デュエット」でした。なお「デュエット」がおしゃれかどうかは年代によって感じ方が違うと思いますので何卒ご容赦ください。

 

それはさておき、「オフコース」は「二人組」から「バンド」になったあと、ヒット曲を連発するのですが、その作詞作曲は「小田和正さん」オンリーになっていました。そうなりますと、やはり元々コンビを組んでいた相方さんはバンドから離れて行くことになります。当人である鈴木さんが関西の番組で本音をぶっちゃけていました。しかし、こうした感情は人間の性ですので仕方ありません。誰も責めることはできない代物です。

 

チャゲ飛鳥の「仲たがい」が露わになったのは、飛鳥さんが覚せい剤で逮捕されたときでしょうか。僕が印象に残っている映像は、「飛鳥さん逮捕」が報じられたあとに、ある番組に出演していたチャゲさんのコメントでした。突き放したような叱責した発言からは、一緒に活動してきた相手に対する思いやりが微塵も感じられませんでした。

 

それに比べて、同じ覚せい剤で逮捕された電気グルーヴピエール瀧さんに対する石野卓球さんの暖かいすべてを包み込むような愛情が印象的でした。この二人のなんと違うことよ!やはり、本当に仲がよいふたりは、相手がどんな悪い境遇になろうとも、手を差し伸べるのです。

 

結婚式で、神父さんに言われますよね。「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも」って。これには「逮捕」も入っていてよいのではないでしょうか。味方は、一生味方でいなくっちゃ。それを破ったことになるチャゲさんの対応でした。二人の絆はこのときに切れたのです。…たぶん。

 

ということで、僕はこの歌を聴くたびに「二人の絆」が頭に思い浮かぶのでした。ちなみに、僕はずっと長い間、タイトルを「狂い咲き」と勘違いしていました。人を愛するときって「狂おしく」なるくらい心が燃え上がりますよねぇ。だから。

 

僕、熱情的なんだ。それでは、また来週。

 

陽のあたる場所

1981年3月21日に発売された浜田省吾の12枚目のシングル。
作詞作曲:浜田省吾

 

これまで書いていますように、ハマショーさんは「純愛」と「社会的メッセージ」と「不倫の愛」を歌う名手ですが、この歌は「不倫」を歌った楽曲です。人としては言うまでもなく「純愛」が理想ですが、元来不完全な生きものである人間は「純愛」だけでは収まらない感情を持ち合わせています。悲しいかな、持ち合わせています。

 

もちろん中には「不倫などもってのほか」と毛嫌いしている人もいないではないでしょうが、如何せんニュースを見ていますと「不倫」がニュースになることは多々あります。かの上野千鶴子先生も「ひとりで我慢できるのが不思議でしょうがない」と語っています。あれほど学識があり、頭のいい人でも複数の異性を好きになることはあるようです。

 

「いわんや凡人をや」といったところでしょうか。

 

♪寂しさにたやすく恋に落ちた

 

と出だすのですが、結婚したにもかかわらず、「寂しさ」に陥ってしまうのが、そもそも大失敗です。とはいいつつ、そういう人多いんですよねぇ。それはなぜかといいますると、それは答えは簡単でっせ。「飽きる」からでやんす。

 

人間、どんなに高尚な人間もで「飽きる」ってあるんですよねぇ。フフフ…。どんなことにでも「飽きない」人っていませんから。というわけで、人は誰しも「不倫」に陥ってしまう下地を持っているのでございます。ただ、それを我慢できるか否か、にかかっているわけでございます。

 

ちょっとそこのお兄さん、お姉さん。考えてみてもくだせいな。同じものを食べてたら飽きるでしょ。そしたらたまにほかのものを食べたくなるじゃあ~りませんか。そうした心持のときに、一緒に暮らしている異性とは異なるタイプの異性が現れて、しかも魅力的だったなら、そりゃぁ、あなた胸がときめかないほうが不思議というものでやんす。

 

これは「いい」とか「悪い」とかの問題じゃぁございません。人間には感情というものがありますので、仕方ないことなのですね。知らんけど。おそらく上野先生はそのことを言っていらっしゃるのだと思います。知らんけど。

 

ハマショーさんの作詞のセンスの素晴らしさはここに集約されております。

♪僕のもうひとつの愛の暮らしに
♪ふれないように逢うたび二人
♪ふざけてばかりいた

 

これは完璧に究極の心理学でやんす。人は「見たいものしか見ない」性質があるんですが、こうした性向は、いろいろな場面に現れます。例えば、企業が倒産に至るとき、本来ですと「ヤバくてなにか手を打たなければいけない状況でも、恐怖心で意識的に考えない」ようにすることがあります。結局、それが致命的になりにっちもさっちもいかなくなって倒産の憂き目にあうのですが、手遅れはすべて「見たいものしか見ない」という人間の業によって引き起こされているのでございます。

 

「ふざけてばかりいた」のも自分の気持ちをごまかすためというほかありません。人間って弱いですよねぇ。でも、現実は必ず目の前に眼前と現れるのでございます。

 

♪愛だけを見つめ季節は過ぎてゆく
♪愛だけ見つめ悲しみ深くなる

 

時間稼ぎをいつまでも続けることはできません。ハマショーさんはそれをわかっていますので、最後に

 

♪愛だけ愛だけみつめ

 

と書いているのですが、実はそうやってごまかしているのです。今、不倫に陥っているそこの“あなた”。この文章を読んでいるそこの“あなた”ですよ。

 

気をつけてねぇ。

 

ほんじゃ。

 

浪花恋しぐれ

2008年5月21日発売
作詞:たかたかし 作曲:岡千秋
歌唱:都はるみ岡千秋


♪ちゃーん、ちゃらちゃらちゃ~ん
♪ちゃーん、ちゃらちゃらちゃ~ん

そして、三味線のチャカチャカチャン、という前奏を聴いただけで、僕が思わず「みや こ、みや こ」と叫んでしまう「浪花恋しぐれ」です。一応若い方のために仮名を書いておきますと「なにわこいしぐれ」と読みます。「浪花」という文字がつくことで想像できるでしょうが、この歌は関西の歌ですねん。

 

♪芸のためなら 女房も泣かす
♪それがどうした 文句があるか

 

と今の時代ですと、間違いなくセクハラとかモラハラと非難ごうごうとなる歌です。いやぁ、昭和のおじさんとしてはなんともはや懐かしい臭いが漂ってくる歌詞です。当時、どれだけこの歌詞に憧れたでしょう。現実は、そんなことはまったくなく女房の尻に敷かれてほそぼそと暮らしていた僕でした。

 

♪そばに私が ついてなければ
♪なにも出来ない この人やから
♪泣きはしません つらくとも

 

この歌詞を書いていて、僕思い出しました。今の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」のオダギリジョーさんは、この歌詞のような方ではあーりませんか。奥さんが必死に回転焼きを焼いて、オダギリさんはただ遊んでいるだけじゃあーりませんか。なんと羨ましい生活ぶりです。深津さんの献身的なところは、この歌の歌詞そのまんまでんね。

 

そんな深津さんも結婚するまではしおらしく、そして、オダギリさんはやさしくおでこに傷が深津さんをいたわる優しくもたくましい雰囲気がしていましたが、いつの間にか性格が逆転して、深津さんはオダギリさんを養っている関係になっていますねん。

 

♪「好きおうて一緒になった仲やない
♪あなた遊びはなれ 酒も飲みなはれ
♪あんたが日本一の落語家(はなしか)になるためやったら

 

な、すごいですやっしゃろ。夫のためやったらどんな苦労も耐えてみせます。これくらいの心意気が、昭和の時代は奥さんに求められていたんやで。なぁ、もう昭和になんか戻りとうありませんね。わいもそう思いまっせ。

 

ご存じの方も多いでしょうが、この歌を歌っていた“はるみ”さんは、一度芸能生活を引退しております。たぶん、男に尽くすのに疲れたんやろなぁ、そんな気がしております。実は、引退したあとはプロデューサー業に専念していたのですが、そのときにプロデュースをした歌手は神野美伽さんでした。

 

“はるみ”さんのお師匠さんが市川昭介先生で、同じ門下生ということで面倒を見ることになったのだと思います。プロデュースしているときの様子をあるドキュメンタリー番組で放映していましたが、正直プロデューサーには向いていない印象を受けました。やはり、自分で歌うのとプロデュースするのでは、今一つやり方が違うような感じがしました。

 

その後、一時期歌手に復帰するのですが、現在は再度引退をし、そして少し前ネットニュースで東北地方で俳優の方と同棲していると報じられていました。もう年齢的に、静かな余生を過ごしたいと思っているのでしょう。是非とも、幸せな時間を過ごしていただきたく思います。

 

それでは、さよなら。

 

男のくせに泣いてくれた

1993年1月25日
歌:森田童子 作詞作曲:森田童子


この歌は1993年のテレビドラマ「高校教師」の挿入歌なのですが、主人公である真田広之さんが桜井幸子さん演ずる女子高生の不遇さを悲しみ涙を流す場面で流れていました。真田さんの迫真の演技とこの歌が相まって感動したのを覚えています。桜井さんが不憫で不憫でかわいそうだったのです。まだまだテレビドラマが全盛期の頃でした。

 

やはり「高校教師」で真っ先に思い出すのは主人公の二人ですが、それと同じくらい、いえそれ以上に思い出すのは脚本家の野島伸司さんです。この当時、野島さんはすでに押しも押されぬ売れっ子脚本家でしたが、話の内容が過激すぎていろいろと物議を醸したドラマでした。

 

そんな過激なドラマにピッタリの歌の数々の一つが森田童子さんの「僕たちの失敗」という歌でした。僕の手元にある音源は、あとからベスト盤として発売されたCDですが、このドラマで流れる以前、学生時代にこの歌を知っていた僕は「おお~!」と感激したのでした。

 

僕は学生時代、明るいキャラではありましたが、高野悦子さんの「二十歳の原点」などといった暗ゲの思想にも感化されていました。若者によくあることですが、青春の挫折こそが青春の証であるように思っていた頃で、ちょうどこの「僕たちの失敗」が心に刺さる時期を過ごしていました。それから月日が過ぎ、結婚し、子供が小学生くらいになっていた頃に、この歌がテレビから流れてきたときの感激は大きなものがありました。

 

森田さんは謎に包まれたシンガーソングライターだったのですが、本名も結局最後まで明かさずに引退しています。ウィキペディアによりますと、「2018年4月24日未明、心不全のため自宅で死去。66歳没」と書かれています。本名も明かさず、人生を全うしたその生きざまは森田さんの残した歌がそのまま重ね合わさるように思います。

 

過去の栄光が忘れられず、称賛の視線を得たいがためにマスコミに出たがる人も少なからずいますが、森田さんは最後の最後まで自分の生き方を崩しませんでした。見事というほかありません。歌を歌うという行為は、なにも有名になることが目的ではないはずです。自分の心の中にある思いを吐き出したい、それが結果的に注目を集めることになることはあります。しかし、その反対に「有名になりたいがために、歌を歌うのであればそれは本末転倒」です。そういう人の歌は、結局忘れ去られてしまうでしょう。

 

かつてフォーク界で神さまと言われている吉田拓郎さんが「いい歌というのは、どれだけ売れたかという枚数ではなく、どれだけ人々の記憶に残るか、で決まる」と話していました。「男のくせに泣いてくれた」も「僕たちの失敗」も、実は発売当初はさほどヒットしていません。10年後にドラマに起用され、ヒットにつながっています。こうした歌こそ、本当の名曲と言えるのではないでしょうか。もちろん、そういう歌を起用したプロデューサーのセンスも認められて当然です。昔のテレビドラマのプロデューサーにはそうした素晴らしい才能の持ち主の方々がたくさんいたように思います。

 

それでは、また次回。

 

シングルベッド

シャ乱Qの6枚目のシングル楽曲。1994年10月21日発売
作詞:つんく、作曲:はたけ


基本的に僕が「この歌、好き!」と思うきっかけは、なんといっても「メロディー」です。自然に頭の中に入ってくるので、そのあとに歌詞を確認して、「おお」「なるへそ」などと感動が続いて、より一層好きになるのがいつものパターンです。

 

「歌詞を確認して」などと書いていますが、実際はきちんと覚えることは稀で、ほとんどは勝手に歌詞を作って口ずさんでいます。ですので、いつも聞かされている妻はそうしたストレスが溜まっていき、爆発することがあります。でも、僕はこの癖がなおりません。

 

書きはじめたばかりでなんですが、そして話は逸れますが、「なるへそ」が自然に出てきましたが、この言葉はかつて(と言ってもかなり前で正確にはわかりません)子供の間で自然に使われていたギャグの一つで、響きのよいとてもいい言葉です(^o^)

 

そんなことはともかく「シングルベッド」です。この歌も僕のこれまでの例に漏れず、真っ先に好きなったのは「♪シーングゥルー ♪ベッーッド」の部分です。このメロディーは元チェッカーズのフミヤさんの「True Love」と同じで音階が少しずつ上がっているメロディーラインが特徴です。素人が勝手なことを書いていますが…、ホンマかいな。

 

芸能界で成功する人はほとんどの人には「成功するまでのストーリー」があるものですが、つんく♂さんにもありました。「シングルベッド」が大ヒットする前に「上京物語」という中ヒットの歌があったのですが、この「上京物語」がヒットしなかったなら大阪に戻る決意だったそうです。というよりも、レコード会社から契約を解除されることになっていたそうです。ですが、その最後の最後にヒットを飛ばすことができ、そして「シングルベッド」でバンドとしての不動の地位を獲得したことになります。

 

ですが、僕がつんく♂さんで一番覚えているのは、ダウンタウンの歌番組「HEY!HEY!HEY!」での浜田さんとのやり取りです。番組内ではダウンタウンとなにげなく話し込む時間があるのですが、その中でつんく♂さんは「浜田さん」のことを「兄やん」と呼んでいました。その言い方がアーティストであるにもかかわらず似合っていたのですが、、浜田さんは「芸人でもないのに、やめや」と笑いながら話していました。その屈託のない話しぶりがつんく♂さんの魅力を物語っていました。

 

実は僕は、「上京物語」と「シングルベッド」は好きなのですが、そのほかの歌は全く好きではありません。「全く」とつけるほど好きではないのですが、その理由は「勢い」だけで売れていた感があったからです。若い子って、好きになると「なんでもかんでも」好きになるじゃないですか。そんな気がしていたのです。

 

その後僕がつんく♂さんを見かけるようになったのは、言わずと知れた「モーニング娘」の大成功でした。「モーニング娘」が出てきたオーディション番組は小室哲哉さんプロデュースでの成功のあとに次を引き継ぐ著名人を探していたそうです。例えばB’z稲葉浩志さんなどいろいろな人にオファーをしたのですが、その中で受けてくれたのがつんく♂さんだったそうです。この決断は番組的にも成功でしたが、実はがつんく♂さんにとっても意義があることでした。なぜなら、アーティストいう以外にプロデューサーとして活躍することができたからです。つまり芸能人としての寿命を延ばしたことになります。もちろん収入の面においても大成功につながっているのですが、ここで先ほどの「兄やん」という言葉を普通に使える人間性が活きたことは間違いありません。

 

モーニング娘で大成功したあと、なにかの番組でおニャン子の秋元さんとの対談番組を見たことがあります。当時秋元さんはおニャン子のブームが去ったあとで一区切りつけていた時期ですが、入れ替わるようにつんく♂さんがブームを作っていました。その会話の中でつんく♂さんは秋元さんの背中を追っているような発言し、秋元さんを立てていました。

 

僕の印象では、秋元さんは作詞家として十分売れていましたのでアイドル業界には興味を持っていないように思っていましたが、のちにAKBで再度アイドル業界を席捲してくるとは驚きでした。もしかしたなら、つんく♂さんの成功で刺激を受けたのかもしれません。

 

そのアイドル業界では、いろいろな「坂組」グループが誕生するのですが、たくさんのグループが誕生したそもそものはじまりは、つんく♂さんがプロデュースした「モーニング娘」です。その後、病により声が出せなくなっていますが、そうした不運にも負けずに浮き沈みが激しい芸能界で長期間第一線で活躍している姿は素晴らしいものがあります。そうしたことが可能なのもすべては「上京物語」のヒットであり「シングルベッド」の大ヒットにあります。

 

それでは、また。