心に残った歌

今までに心に残った歌(1970年代~)

最後の言い訳

1988年10月25日に発売された徳永英明さんの6枚目のシングル。
作詞:麻生圭子 作曲:徳永英明 編曲:瀬尾一三

 

この歌は出だしの「♪タン、タタタタ~ン、タンタタタター タタタタタタター」と聴いただけですぐにわかる名曲です。いやぁ、下手ながら家族で行ったカラオケでよく歌ったものです。今回コラムを書くにあたって知ったのですが、関西のテレビ局のドラマの主題歌だったそうです。僕が知ったのは音楽番組でしょうか。覚えたきっかけはほとんど記憶にありませんが、とにかく「いい歌」として覚えている歌です。

 

僕の妻は変わり者ですので、徳永さんのような整った顔のイケメンの人はあまり好きではありません。ですので、「顔を見ないで聴く分にはとてもいい歌」といつも話しています。僕が徳永さんで一番記憶に残っているのはデビューしてから十数年経った頃のことです。

 

デビュー当時は人気もあり、ヒット曲もたくさんありましのたでいろいろな番組で見かけていました。ですが、どんなアーティストでもそうですが、ピークを過ぎますとやはり落ち込みと言いますか、低調と言いますか、言い方はともかくマスコミなどで見る機会が少なくなってきます。そうした時期にたまたま芸能人の納税額ランキングを発表している記事を読んだのですが、なんとその上位に徳永さんの名前があったのです。

 

こう言っては失礼ですが、ヒット曲があったわけでもなくマスコミなどで活躍が報じられるでもない時期でしたので、とても不思議でした。その理由がわかったのはランキング発表から少しばかり経ったころでしたが、納税ランキングの上位に入っていた理由は韓国で徳永さんの歌が大ヒットしていたからでした。

 

当時、韓国と日本は交流が禁止されていましたので、日本の楽曲を流すことができませんでした。それを狙ってといいますか、そういう環境の中、ある韓国の男性歌手が徳永さんの歌をカバーして発表していました。歌詞は韓国語ですが、メロディーは徳永さんのものです。ですので、その印税がすごかったのでした。昔タモリさんが「夢のような印税収入」と語っていたことがありましたが、まさに徳永さんはその「夢の印税収入」で高額納税者に名を連ねていたのでした。印税って、本当にいいですね。

 

おそらく当時の韓国では日本でヒットした楽曲を韓国語に変えて発売していた例がたくさんあったのではないでしょうか。そうした過去を思うとき、現在のBTSをはじめとした多くのアーチストの活躍は夢のようです。韓国は面積も狭いですし、人口も日本の半分くらいですので市場的には小規模です。ですので、海外に打って出るのは当然の挑戦ですが、成功するのは簡単ではありません。かつては、日本に出て成功するのが目標でしたが、現在は日本どころか世界に打って出るのがごく普通の発想になっています。日本はいつしか完全に追い抜かれています。


そんな心配より徳永英明さんです。徳永さんが一時の低迷を経た後、復活したのは女性ミュージシャンや女性がヴォーカルを務めるバンドの楽曲だけを歌った「ボーカリスト」というアルバムを出したのがきっかけのように思います。僕の記憶では、「もやもや病」という不思議な病気と闘っているという記事を読んだことがありましたが、なにもしていなくてもほかの人が歌ってくれているのでガバガバと印税が入っていくるのですから、「歌など歌わなくてもいいものを」と思うのは、僕が凡人であることの証明です。

 

徳永さんはデビューしたばかりのころ、プロデューサーと対立してレコーディングをやめたことがあるそうですが、対立した原因は自分の考えている歌い方とプロデューサーのそれとが違っていたからです。もっと深く原因を探るなら、徳永さんが自ら作詞作曲していることにあるのではないでしょうか。これは後年、徳永さん自身がインタビューで語っていましたが、「若さゆえの傲慢さ」という表現も使っていました。

 

歌に対するそれだけのこだわりというか強い思い入れを持っている徳永さんが、他人の歌をカバーするという発想が、「ボーカリスト」というアルバムの魅力です。おそらく若い頃でしたら、他人の歌を歌う、カバーするなどプライドが許さなかったように思います。いろいろな経験をして、辛い思いもしてこそのアルバム「ボーカリスト」です。

 

徳永さんの「ボーカリスト」のヒットに続けとばかりに、歌唱力に定評のある方がその後同じようなコンセプトで「カバー曲」を発表していますが、僕からしますとやはり「二番煎じ」の印象はぬぐえません。

 

徳永さんは基本的には「作詞も作曲も」自ら作っていますが、「最後の言い訳」の作詞は麻生圭子さんという作詞家の方です。この作詞の内容は、どことなく宇崎竜童さんの奥様である阿木燿子さんを彷彿させますが、魅力的です。

 

♪誰からも君なら好かれると思う
♪心配はいらない 寂しいよ
♪無理に僕のためだと さよならの理由
♪思ってるきみだから せつなくて

 

素敵な歌詞ではあるのですが、穿った読み方をするなら「無理に僕のため」というのはどうもいただけませんな。突き詰めるなら、「別れたい」のは自分なのに「相手のため」とごまかしているのですから、卑怯者と思えなくもありません。僕がこの男性にアドバイスをするなら、「こんなズルい女なんかいなくなったほうがせいせいするぜ」ですね。こんなずる賢そうな、計算高そうな女と結婚して、楽しい結婚生活が送れるわけはありません。

 

あっ……、妻がこのコラムを読みませんように…。

 

それではまた。

ペニーレインでバーボン

1974年12月10日にリリースしたオリジナル・アルバム『今はまだ人生を語らず』に収録されている。


作詞:吉田拓郎
作曲:吉田拓郎
歌:吉田拓郎

 

先日、吉田拓郎さんとジャニーズのKinKi Kidsさんが20年くらい前にやっていた番組が一日だけ復活しました。「LOVE LOVE あいしてる」という番組ですが、復活した一番の理由は、拓郎さんが音楽活動から引退するからです。僕自身も驚いたのですが、「LOVE LOVE あいしてる」が終わってからもう20年以上も経つのですね。

 

妻が毎週楽しみにしていましたので、僕も観ていたのですが、拓郎さんが歯に衣着せぬ発言をするのが一つの魅力になっていました。確か、この頃は拓郎さんがいろいろな番組に出だした頃で、拓郎さん曰く「残りの人生が短くなってきたので、いろいろな人に会っておこうと思って」だそうです。

 

拓郎さんは他局で対談番組などもやりはじめたのですが、その番組の最初のゲストは明石家さんまさんでした。拓郎さんの初めての対談番組ということで、さんまさんが助け舟を出したような印象がありました。

 

KinKi Kidsは「LOVE LOVE あいしてる」で拓郎さん、または周りの人たちからギターの弾き方を教わったりしていたのですが、拓郎さんはもとよりアルフィーの坂崎さんや高見沢さん、谷村新司さん、高中正義さんなどなんとも豪華な講師陣でした。

 

僕がこの番組で一番記憶に残っている場面は、ゲストに谷村さんを迎えた回です。なんと唐突に拓郎さんは「俺はアリスがずっと嫌いだった(アリスは谷村さんが作っていたバンド名)」と宣うたのです。突然に嫌みを言われた谷村さんは動揺し戸惑っていたのですが、ゲストに呼ばれて、そんなネガティブなことを言われても困っちゃうーですよね。

 

こうした発言のように、この番組は拓郎さんのやりたい放題のような番組だったのですが、そうした雰囲気をうまく柔和させていたのが、KinKiのお二人でした。剛さんも光一さんも若いのにもかかわらず、そうした不穏な雰囲気をとっさに察し、そしてうまく流せるテクニックというか性質を持っていました。

 

今回の最終回でも拓郎さんはKinKiの二人に感謝の気持ちを伝えていましたが、KinKiの素晴らしさを一番わかっていたのは拓郎さん自身だったように思います。それはともかく「ペニーレインでバーボン」です。

 

冒頭で書きましたが、この歌が世の中に発表されたのは1974年ですが、これまでの御多分に漏れず、僕がこの歌を知ったのはつい最近です。きっかけもこれまでと同様、youtubeのおすすめ欄でした。拓郎さんの「ファイト!」や中島みゆきさん作詞作曲の「永遠の嘘をついてくれ」などをしょっちゅう聴いていたところおすすめされたのでした。

 

もちろん題名だけは知っていましたが、これまでは今一つ聴きたいという欲求は燃え上ってきていませんでした。それがたまたま聴く機会があり、耳にした瞬間、「どうして今まで聴かなかったのだろう」と後悔するほど好きになりました。

 

♪どうせ力などないのなら
♪酒の力を借りてみるのもいいさ

 

この歌詞のところのパンチのある歌い方とアレンジがなんともいえず素敵です。引き込まれるパンチがあります。この歌は歌詞が長いのですが、拓郎さんの作る歌は長い歌詞が多いのですね。拓郎さんの歌はメロディーに魅力を感じることが多いですが、本来の拓郎さんはメッセージ性がこもった歌詞を好んでいるように感じます。

 

「ペニーレイン」は原宿にあるお店だそうですが、74年頃ですでに原宿は若者に人気があったようです。僕は76年から大学生活を送っているのですが、当時の若者の“原宿詣で”はすごいものがありました。このような状況から一つ疑問が浮かびます。

 

「いったい原宿っていつ頃から若者の聖地になったんだろ」。

 

そこで調べてみますと、昨年東京オリンピックがありましたが、さらにその前の東京オリンピック、つまり1964年ですが、そのオリンピックをきっかけに原宿に若者が集まるようになったそうです。

 

70年代に活躍した音楽業界の人たちの記事を読みますと、拓郎さんは元より、例えば元YMO坂本龍一さんや山下達郎さんなどの記事にも原宿界隈のお店が出てきます。すでに音楽業界の人たちのたまり場になっていたことがわかります。

 

それ以降も、原宿は若者の聖地であり続けているのですが、芸能人がお店を出したりやめたりなどを繰り返しながらそれでも原宿という街全体は発展し続けているのですから、堅めの言葉を使うならマーケッティングの力が優れていることになります。経営の世界には「企業30年説」という言葉があるのですが、この言葉はほとんどの企業は30年で消えていくというものです。しかし、原宿という街は優に30年を過ぎているのですから、どれほどすごいことかわかろうというものです。

 

個人的には、吉田拓郎さんは音楽業界では一つ頭が抜け出た伝説の存在だと思っています。ヒット曲を出す人はこれまでにもたくさんいましたが、存在そのものが魅力という人はそうはいません。拓郎さんはその一人です。その拓郎さんが音楽活動から引退するのですが、楽曲は今後もずっと生き続けることでしょう。

 

それでは、また。

いちご白書をもう一度

フォーク・グループである「バンバン」の楽曲。1975年8月1日に、同グループの5枚目のシングルとしてCBSソニーからリリース。
作詞・作曲: 荒井由実ユーミンさん)、編曲: 瀬尾一三


言わずと知れたユーミンさんこと、まだ松任谷の姓になる前、「荒井」姓のときに作った名曲です。話は全く違うようで、実はそうでもないのですが、今年は共産党が誕生して100周年にあたる年だそうです。僕は毎週映画のサイトで公開される映画をチェックしているのですが、そのサイトで共産党の映画を紹介していました。その映画で「100周年」ということを知ったのですが、結党100周年という区切りの年ということで映画を製作したようです。

 

僕は学生時代、いわゆる「ノンポリ」でした。「ノンポリ」とは「ノンポリティカル」の略で「政治に関心がない人」のことですが、実はこれも友だちに教えてもらった知識ですが、それはともかくバイトと麻雀に明け暮れていた学生時代でした。高校時代はバレーボール部に明け暮れていましたので、その反動として遊び暮らしていたのでした。しかし、僕より一世代前の人たちは「世の中をよくしよう」という意識の元、政治に強い関心を持っていた人たちがたくさんいました。

 

しかし、そうした学生たちでも、広い視点でながめますと、学生運動にのめり込む人というのはやはり一部の人たちで総体的に考えますと政治に対して傍観者の人の方が多かったように思います。それを表しているのが

 

♪僕は無精ヒゲと 髪をのばして
♪学生集会へも 時々出かけた

 

♪就職が決まって 髪を切ってきた時
♪もう若くないさと 君にいいわけしたね

 

学生と社会人は違うんだ、という認識でいたことがわかります。僕は以前「真夜中のダンディ」という桑田佳祐さんの歌を紹介したことがありますが、桑田さんはその年代の人たちに対して、学生運動の反動としての体制に従順になっていた大人たちを批判していたように思います。実は、僕も桑田さんに同意見なのですが、口先だけ反体制を叫んでいた人たちが学生を卒業する段になって、あっさりと寝返ったことに不満を持っていたのでした。

 

今回、この歌を取り上げるきっかけになったのは、先ほどの「共産党の映画」なのですが、それ以外にも70年代に学生運動にかかわった人たちに関する記事を多く目にしたこともあります。例えば、日本赤軍のリーダー格だった重信房子さんが出所したことも一つです。それに関連して当時のことを綴った本なども出版されていますが、そうした記事を読んでいましたところ、その流れでこの楽曲が思い浮かんだわけです。

 

学生というのは実に気軽で無責任な身分で、僕がそうであったように責任を負わなくてはならないことがなにもありません。責任を負わなくていい状況というのはなににも縛られないことでもあります。就職をしますと、会社の指示や命令、上司や先輩の考えに従わなくてはいけない義務が生じます。そうしたさまざまな縛りから解放されている状態が学生です。

 

ですから、学生デモに参加できたのも自由でいられたからにほかなりません。ですが、そうした自由がなくなると、「無精ひげや髪を切らざるを得なく」なります。しかし、本当はそれ以外の選択肢もあったはずです。就職ではなく、どこにも所属せずに働く方法です。そうした状況で就職を選択したということは、自分自身でその道を選んだことになります。そして、上司や会社の命令に従うことになんの疑問も持たなくなっていきます。多くの学生たちが…。

 

そうした若者の心の変遷を掬い取ったのがユーミンさんでした。実は、ユーミンさんは僕より少しばかりの年長に過ぎないのですが、ということは実際は学生運動はもう下火になっていたはずで、この歌詞が思い浮かぶ年齢ではないはずなのですね。それにもかかわらず、こうした歌詞を作れるということは、自分よりも少し年齢が上の方々とのつき合いが多かったのではないか、と想像します。

 

前にも書いたことがありますが、ユーミンさんは大学生を自宅に招きパーティのような催しを定期的に行っていたそうです。そのときの若い人たちの会話の中から作詞のヒントになる時代の雰囲気を見つけていたようです。そのパーティにときおり参加していた、作家の田中康夫さんがなにかの記事で書いていました。

 

学生運動が下火になったのは、連合赤軍事件がきっかけだったと言われています。簡単に言いますと、内輪もめで殺人が行われていた事件ですが、世の中をよくするために仲間をリンチ殺人をしていては一般の人たちから共感を受けるわけがありません。おそらく学生運動に参加しはじめた頃は純粋な気持ちだったのでしょうが、のめり込みすぎると善悪がつかなくなるのかもしれません。

 

その意味で言いますと、「就職が決まって 髪を切る」くらいの学生運動へののめり込み具合がちょうどよいレベルともいえそうです。今回安倍元首相を襲撃した犯人はお母様がある宗教団体にのめり込み過ぎて破産したことが背景にあるそうです。どんなことでもそうですが、「のめり込んで」いいことなど一つもないようです。自分を見失ってしまうからです。

 

自分を俯瞰できるくらいの余裕は常に持っておくことはとても大切です。

 

それでは、また。

 

喝采

1972年9月10日に発売
ちあきなおみさんの楽曲で、13枚目のシングル
作詞:吉田旺、作曲:中村泰士、編曲:高田弘


♪いつものように幕が開き
♪恋の歌うたうわたしに
♪届いた報せは 黒いふちどりがありました


この歌は、もう亡くなってしまった僕のお母ちゃんが洗い物などをしているときにいつも口ずさんでいた歌なのです。僕が小学生くらいだったと思いますが、大ヒットした歌なのですね。歌っている「ちあきなおみ」という方は、デビューした当初は「4つのお願い」とは「X+Y=LOVE」などといったポップで色っぽい歌を歌っていたのですが、次第に「人生といいますか、生き様を歌う」歌手になっていったように思います。

 

歌いだしを聞くだけで、これからドラマがはじまるのが想像できますが、お母ちゃんが好きだったのは、おそらくドラマを感じさせる歌詞よりもメロディーだったように思います。なにかをするときにちょうどよいテンポで口ずさめるメロディーです。

 

ネットで「ちあきなおみ」さんを検索しますと、この「喝采」のほかには「朝日のあたる家」がよく出てくるのですが、この歌はアメリカでは昔から作者不明で知られている歌らしいです。それを日本語で歌っているのが「ちあきなおみ」さんなのですが、いろいろ調べていくうちに、アメリカでの歌詞と日本の歌詞では内容にかなり違いがあるようです。

 

「ちあき」さんが歌っているのは、女郎屋に売られて娼婦になった女性が、妹に「自分みたいにならないように」と伝える歌詞なのですが、アメリカ版では女郎屋ではなく、刑務所なのですが、実はどれも確定的なものがなく、結局「諸説ある」というのが真相のようです。

 

僕はこういうメロディー、わっかるかなぁ…、テンポがゆっくりでシャウトするような感じの歌が好きなのですが、似たような歌としては「男が女を愛する時」(原題: When a Man Loves a Woman)があります。この歌はパーシー・スレッジさんという方が作った歌ですが、僕的にはスレッジさんが歌ったものよりもマイケル・ボルトンさんという方が歌った歌の方がずっとずっと素敵です。あくまで個人的見解です。

 

それはともかく、「ちあき」さんが歌っている「朝日のあたる家」は、まるでミュージカルを歌っているかのように歌っています。どちらかと言いますと、それまで「ちあき」さんは演歌歌手の括りに入っていたように思いますが、「朝陽のあたる家」を歌っている「ちあき」さんはミュージカル歌手です。

 

そういえば、フォークソングで出発した中島みゆきさんもいつのまにか、ミュージカルとはいいませんが、完璧な舞台歌手のようになっていましたね。「夜会」というらしいですが、フォーク歌手の雰囲気が微塵も感じられません。人って変わるんですね。中島さんで僕が今凝っているのは、少し前に紹介しました「ホームにて」です。これ、何回聴いても全然飽きないんですよね。

 

話が逸れてしまいましたが、「ちあき」さんは旦那さんがお亡くなりになったのを期に芸能活動を一切やめてしまったそうです。それほど旦那さんを愛していたのかもしれません。一切マスコミに出てこないのは、なんとく潔く尊敬しています。

 

それでは、また。

 

あなたの心に

作詞:中山千夏/作曲:都倉俊一
1969年9月1日に発売された中山千夏のデビュー・シングル


中山千夏さんと聞いてご存じの方は中高年以上です。60代半ばの僕が中学生くらいのころにヒットした楽曲ですが、中山さんは当時「才女」と謳われていたほどの売れっ子でした。僕が最初に中山さんを知ったのは「ひょっこりひょうたん島」という人形劇ですが、その中で声優を務めていました。この番組も中高年以上でないとご存じないと思いますが、当時、子供たちに大人気の番組でした。

 

ちなみに、この番組の原作はのちに大作家となる井上ひさしさんですが、当時の僕はそんなことはつゆ知らずただただ楽しく見ていたように思います。基本的にこちらの方面に詳しくありませんのでそれ以上のことは覚えていませんが、中山さんがこの番組で声優をやっていたのもあとから知ったことで、そのときも驚いた記憶があります。

 

僕が中山さんで強烈に覚えているのはTBSテレビで放映されていた「お荷物小荷物」というドラマです。林隆三さんが相手役でしたが、階段だったか、洗濯物を干す場所だったか、忘れてしまいましたが、そこに中山さんが腰かけて悩んでいる場面が、不思議と今も記憶に残っています。

 

そのほかに中山さんに関することで覚えているのは、学生時代にバイトで知り合った先輩から聞いた話です。その先輩は偏差値の高い大学に通っていたバンカラふうで、いかにも貧乏な学生といった風情で、当時阿佐ヶ谷に住んでいたのですが、隣町の高円寺までよく遊びに行っていました。

 

その先輩が僕に「中山千夏が『おんなの身体ノート』って本出しているんだけど、結構面白いよ」と教えてくれました。20才前後で頭の中を女体が駆けまわっていた僕からしますと、「おんなの身体ノート」というタイトルだけで興奮した覚えがあります。正しくは単に「からだノート」というタイトルだったのですが、先輩が僕にわかりやすく「おんなの」とつけてくれたので興奮がより高まったのでした。

 

作詞は中山さんですが、作曲は都倉俊一さんです。都倉さんで記憶に残っているのが、作詞家阿久悠さんのお話です。阿久さんは「スター誕生」という若いアイドルを発掘する番組を誕生させた方ですが、その方がある日レコード会社に行ったときに派手な会社に乗っている青年を見かけたそうです。そのことを会社の人に話すと、最近売り出し中の若手作曲家と教えてもらったそうです。

 

阿久さんはその都倉さんをスター誕生に引き入れるのですが、途中幾度か「都倉さん自身」を売り出そうとした気配がありました。おそらく都倉さんの洗練された外見や雰囲気が縁の下ではなく、表に出したほうがいいと判断したのだと思いますが、そうした嗅覚の素晴らしさがわかるエピソードです。

 

「あなたの心に」はフォークソング風の歌ですが、実際レコードのジャケットもフォーク全盛が全面に出ています。

 

♪あなたの心に風があるなら

♪私ひとりでふかれてみたいな


ね、ね、ね、なんと素朴な歌詞でしょう。これぞ昭和!という感じです。今から14~15年ほど前、すでに作詞家として格たる地位を得ていて秋元康さんは、あるインタビューで「これからの作詞はどのようになっていくのでしょう?」という質問に「これから以前のようにシンプルでわかりやすい歌詞が主流をしめていくんじゃないかな」と答えていました。


当時は、少しばかり込み入った歌詞が流行っていたのですが、「そうした時期が過ぎて、また昔のような歌詞に戻る」というお話でした。まさに「あなたの心に」はシンプルで心の中に素直に入っていける歌詞です。

 

複雑な恋愛に疲れたら聞いてみたい楽曲ですね。

 

それではまた。

 

おやじの海

村木賢吉さんが1972年に発売した演歌
作詞作曲:佐義達雄

当初、シングルを500枚自主制作した。それから6年後の1978年頃に、北海道釧路市で有線放送から人気に火が付き、数か月で全国に広がった。
1979年2月にシングルを再発売、その後翌1980年に掛けて大ヒット、ロングセラー曲となった。(ウィキペディアより引用)

 

こういった経緯があるそうですので、僕が知ったのは1980年頃でしょうか。おぼろげながらの記憶では当時、TBSで放送されていた「ザ・ベストテン」という歌番組で知ったように思います。この番組では演歌の方もたくさん出演していたのですが、一番記憶に残っているのは、なぜかタンスを肩にかついだまま大ヒット曲「さざんかの宿」を歌っていた大川栄策さんです。確か、タンス職人の経験があったということでこのような歌い方になったのだと思いますが、なかなか素晴らしい発想です。

 

次に覚えているのは、なぜかふんどし姿で「みちのくひとり旅」を熱唱していた山本譲二さんです。いったい誰が「みちのくひとり旅」とふんどしを連想するのでしょう。あの引き締まったおケツが忘れられません。この発想もピカイチでした。

 

大川さんは「さざんかの宿」が大ヒットして、一気に人気歌手の仲間入りをしたのですが、普通に考えますと、下積み生活が長く苦労の連続、と思いきや、なんと大川さんはヒット曲はなくとも営業で全国を回り、そこそこアルバムも売れていたそうで、「さざんかの宿」以前から、裕福な暮らしをしていたそうです。大川さんの登場で、演歌歌手の世界のシステムを知ったことなどが、思い出されます。

 

あ、「おやじの海」だ。

 

この歌の素晴らしいところは、なんと言いましてもメロディーと少しなまった口調で歌う節の回し方です。

 

♪海はヨ~、海はヨ~
♪でっかい海はヨ~

 

ねぇ、素敵でしょ。

 

♪右にてぐすを 左で ろこぎ
♪つらい漁師に たえて来た

 

情景が思い浮かぶじゃあーりませんか!

 

年をとると思うのですが、やっぱり、日本人は演歌だよなぁ、って思わせる名曲です。

 

それでは、次回。

 

スカイレストラン

1975年11月5日発売
ハイ・ファイ・セット
作詞:荒井由実 作曲:村井邦彦 編曲:松任谷正隆


ユーミンさんの作詞作曲ですが、いつも書いていますように、そしてあくまで僕の個人的見解にすぎませんが、この歌はユーミンさんよりも山本さんの歌声のほうが魅力が伝わります。実は、いま「魅力が倍増します」と書きそうになったのですが、そこまで書きますと、さすがにあれで、あまりにもえげつない表現ですので、少し抑えて「魅力が伝わります」と表現しました。

 

今回書くにあたって調べていくうちに幾つか知らなかった情報を得ました。僕がこの歌を知ったのは「ハイ・ファイ・ブレンド」というアルバムなのですが、この歌はシングルでも発売されており、そのB面が「土曜の夜は羽田に来るの」だそうです。この歌も女ごころを見事に切り取った歌詞なのですが、どこかしら「スカイレストラン」と似たような風景が浮かんでくるのはそうした事情もあるのかもしれません。

 

どちらも男性に振られる女性の心情を実に巧みに掬い取り、本当に心に染み入るのですが、その最大の要因はなんといっても歌詞にあります。女ごころを書かせたら日本一と思うユーミンさんの真骨頂です。

 

♪なつかしい電話の声に
♪出がけには髪を洗った

 

お~、お~、これだけで情景が浮かぶではあ~りませんか!

秀逸はなんといってもこれです。

 

♪もしここに彼女が来たって
♪席を立つ つもりはないわ

 

お~、お~、強気だけど切ない女こころが伝わってくるぅじゃ、あ~りませんか!これを秀逸と言わずなんといいましょう。

 

♪今だけは彼女を忘れて
♪わたしを見つめて

 

お~、お~、これほど元カノを忘れな草にする男、いったいどんな男なんだー、僕も言われてみたい~!

 

以上、現場からでした。

 

それでは、また。