心に残った歌

今までに心に残った歌(1970年代~)

チェインギャング

THE BLUE HEARTSの通算3枚目のシングル
「キスしてほしい(トゥー・トゥー・トゥー)」のB面
7インチレコード(1987年)8cmCD(1987年)

 

この歌が発表された頃、僕はほとんど流行っていた歌の記憶がありません。理由はラーメン店を開業したばかりの頃だからです。歌を聴く余裕が全くありませんでした。ですので、80年代後半から90年代にヒットした歌はほとんど知らないのです。

 

そういう理由で、THE BLUE HEARTSについてもこのバンドが人気絶頂だった頃を知りません。僕がTHE BLUE HEARTSについて知っていたのは「リンダ リンダ」という歌が印象的だったからです。しかも、この歌を知ったのもTHE BLUE HEARTSで知ったのではなく、甲本さんの物まねをしたスマップの中居くんを見たことでした。

 

「ドブネズミ」という言葉からはじまる歌詞も刺激的でしたが、それよりなにより甲本さんの歌うときの派手なパフォーマンスが注目されていました。ですので、最初の頃はロックバンドというよりも企画物バンドという印象を持っていました。

 

THE BLUE HEARTSの凄さを知ったのはそのずっとあとで、自動車のテレビCMで「日曜日よりの使者」が流れてきて、なんとなく聞き覚えがあるというか、心にスッと入ってくるメロディと歌詞が心地よかったからです。

 

それから、遅まきながらTHE BLUE HEARTSYouTubeで見る機会が多くなり、次第に単なる企画物バンド、もしくはロックバンドではなく、もっと奥深いバンドということを知りました。特に、歌詞の素晴らしさには感動せずにはいられませんでした。甲本さんはバンドの顔ですので、注目されるのは当然ですが、「チェインギャング」を作詞作曲している真島昌利さんの才能にも驚かされました。

 

おそらくこの歌を作ったのは20代だと思いますが、そんな若い時にこんな胸中、考えを持っていたことに驚愕です。僕が20代の頃はこんな難しい哲学的な考えをすることなどありませんでした。真島さんは、間違いなくとても感性が敏感で鋭い人で、哲学的な人です。

 

この歌の歌詞は、言い過ぎと批判されることを覚悟して書きますと、精神的にかなり追い込まれていたときではないでしょうか。そうした精神状態でなければ、出てこない言葉が連なっています。

♪仮面をつけて生きるのは 息苦しくてしょうがない

♪世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない

♪一人ぼっちがこわいから ハンパに成長してきた


これらの歌詞に、青春の焦り、動揺、挫折を感じる人は多いでしょう。繰り返しますが、20代の頃に書いた歌詞とは思えません。

 

真島さんには「青空」という歌もありますが、この歌は不平等で不公平な世の中を風刺した歌詞となっています。計算高い人や優越感を持ちたがるハンパな人がたくさんいる世の中を憂いています。現在世界的に問題になっている人種差別問題を30年も前に歌っているのです。こんな素晴らしい歌があるでしょうか。

 

かというと、真島さんには「アンダルシアに憧れて」という、まるでギャング映画の一シーンを描いたような歌があります。ハンフリー・ボガードかアル・パシーノあたりが出てきそうな歌詞の内容ですが、こうした作詞もできるところがまた、真島さんの引き出しの多さを表しています。

 

THE BLUE HEARTSのファンはもちろんですが、今の50才前後の人たちにとっては超有名なバンドであり、数々の名曲を発表していた神バンドなのだと思います。そうしたことを一番感じるのは解散してかなり年月が経つにもかかわらず、いろいろなCMでTHE BLUE HEARTSさんの歌が使われていることです。「どれだけ好かれていたんだ!」と思わずにはいられません。

 

THE BLUE HEARTSのメインは甲本さんですが、その相方に真島さんという素晴らしい才能の持ち主がいたことが、このバンドの凄さを最も象徴しているように思います。そういえば、BOOWY(ボウイ)にもメインを張る氷室京介の相方に布袋寅泰さんという天才がいたっけ…。

 

それでは、また次回。

「愛しているのに」

長渕剛

1993年大阪城ホール 白の情景 


いつも書いていますように、僕は音楽に詳しいわけではありません。ですので、僕が好きになる歌というのは、その歌が世の中で人気があった時期とずれていることがたびたびあります。「たびたび」どころが、ほとんど全てと言っても過言ではないかもしれません。

今回紹介します「愛しているのに」という歌は最初は1982年に発表しているのですが、僕が好きになったのは1993年に大阪城ホールで歌っている「愛しているのに」というライブ版です。よく言われることですが、長渕さんは歌うごとにメロディーが変わることがあります。ひどいと言いますか、顕著なときは最初の頃のメロディーの面影を全く残していない場合さえあります。

人によっては、「別の歌」とまで言い切る人がいますが、最初の頃のメロディーが残っていないのですから否定できなくもありません。82年に発表したときの歌は澄んだ声でさわやかに歌っています。それに対して僕が好きな「愛しているのに」はダミ声で迫力ある声で歌っています。

からしますと、その皴枯れた感じがメロディーにピッタリはまって最高なのです。YouTubeでは「白の情景 LIVE'93 大阪城ホール」とタイトルがついていますが、このときのピアノ弾き語りのアレンジも最高です。YouTubeでは87年のライブも見ることができますが、ピアノのアレンジが今ひとつで、93年の素晴らしさには及びません。

実は、この歌は最初に一度聴いて、長い間聴くことができないでいました。理由は、いつどこで歌われたのか分からなかったからです。たまたま偶然YouTubeで出会うことができたのですが、そのときのうれしさといったら半端ではありませんでした。YouTubeさまさまです。そのときに初めて「大阪城ホール」とか「白の情景」とかというタイトルを知ることができたのです。

このライブのあと、長渕さんは薬物疑惑で逮捕されたりもするのですが、この頃の長渕さんが一番好きです。このときの映像を見ますと、「神がかっている」という言葉がぴったりあてはまるような雰囲気を醸し出しています。声を張り上げなくても絞り出さなくても、腹の底から迫力ある声が響いてきていました。これを「神がかり」と言わずなんと言いましょう。

僕が長渕さんを知ったのは「順子」という歌がヒットしたときです。テレビの歌番組で知ったのでしょうか。定かではありません。それからテレビドラマの「とんぼ」のヒットがあり、「乾杯」があり一気に全国区になっていきました。「乾杯」という歌も最初にリリースしたときのメロディーと全国区になったときの「乾杯」は別物のメロディーになっています。

この頃、なにかのインタビューで「メロディーの違い」を指摘されたとき、「歌はそのときどきで変わっていくもの」と憮然と答えていたのが印象に残っています。そういえば前々回桑田さんの「真夜中のダンディ」を紹介しましたが、桑田さんと揉めたのもちょうどこの頃だったように記憶しています。

それはともかく声量といい心情を込めた歌い方といい、歌がうまいのは間違いありません。僕に褒められてもうれしくもないでしょうが、歌がうまいのだからこそ、楽譜に忠実に歌ってほしいと思っています。

また、次回。

「涙のシークレットラブ」

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(宇崎竜童)
1976年

 

この歌はなんと言っても、出だしが秀逸です。静寂の中に鳴り響くギターのストローク音からはじまり、そこにくわわるサックス音、そしてピアノのアルペジオ、この3つの合体がなんとも心地よいのです。

音楽に素人の僕ですので、この表現が合っているのか自信がありませんが、まずギターで気を惹かれ、サックスで魂が揺さぶられ、ピアノで心を鷲掴みにされます。思い起こせば大学1年生の青春真っただ中の僕が恋に憧れた季節でもありました。

失恋の歌なのですが、この歌を聴いて僕が思い浮かんだのは「桃井かおり」さんでした。

♪通いなれた 部屋の隅で
♪灯りもつけずに 壁にもたれて

とか

♪鍵をあけたドアの前で
♪灯りもつけずに 頬杖ついて

こうした描写にピッタリ当てはまるのは「桃井かおり」さんしかいませんでした。あのけだるそうで、ちょっと鼻にかかった話し声で、おかっぱ頭の桃井さんでした。シークレットというくらいですから、公にできない恋なのは想像できます。今で言いますと、「不倫」でしょうか。この歌は今から40年以上前の歌ですが、そんな昔から「不倫」が世の中に存在していたことがわかります。

そういえば「金曜日の妻たちへ」通称「金妻」という言葉が流行ったのは、この数年後です。結婚して幸せなはずの妻たちが夫以外の男性に恋愛感情を持ってしまうドラマでした。今、朝ドラ「おちよさん」でも不倫が佳境を迎えていますが、人間が生きている限り、世の中から「不倫」がなくなることはないのでしょう。

冒頭にも書きましたが、「ダウンタウンブギウギバンド」は宇崎竜童さんがリーダーのバンドです。これまでにも幾度か書いていますが、僕はバラード調の歌が大好きです。宇崎さんはそのバラード調の歌をたくさん作っています。そして、ご存じの方も多いでしょうが、宇崎さんの奥さんは作詞家の阿木燿子さんです。

宇崎・阿木コンビは伝説のアイドル山口百恵さんの歌をたくさん作ったことで有名ですが、百恵さんが宇崎さんを指名した理由は、この「涙のシークレットラブ」を気に入ったからだそうです。そういう記事を読んだことがありましたので、僕はずっと「涙のシークレットラブ」の作詞も阿木さんだと思っていました。ところが、調べてみますと宇崎さんの作詞作曲となっていました。

前から書いていますように、僕が大好きな歌は大ヒットしないというジンクスがあるのですが、この歌にもそのジンクスが当てはまります。ダウンタウンのバラード調の歌で大ヒットした曲といえば「身も心も」でしょうか。この歌はなにかのCMでも使われたのですが、しっとりとした名曲です。でも、僕的には「涙のシークレットラブ」のほうが何倍もいいと思っています。

ついでに紹介しますと、大ヒットしませんでしたが、僕の中でのバラードの名曲として、やはり宇崎さん作詞作曲の「恋のかけら」という歌があります。この歌は、サビの部分に行きますと必ず右の手のひらを握り締め、その拳を肘を中心にして数回上下に動かしたくなるような名曲です。

それでは、また。

「真夜中のダンディ」

桑田佳祐の楽曲。自身の3作目のシングルとして、タイシタレーベルから8cmCDでちょうどソロデビュー6周年となる1993年10月6日に発売された。
2001年6月25日に12cmCDとして再発売


この歌はサザンオールスターズの桑田さんが作詞作曲した歌なのですが、桑田さんがソロで活動しているときに発表した歌のようです。桑田さんを知ったのは、デビュー曲の「勝手にシンドバッド」が衝撃的だったからですが、大ファンというわけでもありませんでした。

それがあるとき、ファンといいますか、興味を持つようになったきっかけは、ラーメン店時代の学生アルバイトさんから「ロックの子」という本を貸してもらったことです。この本は桑田さんがデビューしてから10年後くらいに出版した本ですが、そこにはメンバー内における人間関係の軋轢など精神的な苦しさなどが書いてありました。

あれだけ成功していても、また仲良さそうなメンバー間でも問題っておきるんだなぁ、と思った記憶があります。それ以来、違う視点で桑田さんをみるようになりました。

僕がこの歌に惹かれたのは3番の歌詞に感動したからです。

♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
♪身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂
♪隣の空は灰色なのに
♪幸せならば顔をそむけている

からしますと、この歌詞はベトナム戦争世代とかヒッピー世代とか、つまりは僕たちの年代よりもさらに10年古い世代に対する批判のように思えます。僕は桑田さんと同世代なのですが、僕も同じような発想を持っていました。僕たちの世代よりも10年古い世代といいますと、日本では学生運動真っ盛りの時代で、いわゆる全共闘が幅を利かせていた時代です。

こんなことを書きますと、僕が学生運動に詳しそうで、政治について熱く語る堅物のような人間と思われそうですが、そういうこと全くなく、普通の平凡でノンポリな学生でした。そんな僕ではあったのですが、なぜか世の中の不公平なことには敏感に反応する性質も持ち合わせていました。

ユーミンさんが作詞作曲し、バンバンという二人組が歌ってヒットした「いちご白書をもう一度」という歌があります。この歌の歌詞には

♪僕は無精ヒゲと 髪をのばして
♪学生集会へも 時々でかけた

♪就職が決まって 髪を切ってきた時
♪もう若くないさと 君にいいわけしたね

という一節があります。この2つの歌詞を照らし合わせますと、僕らよりも一世代上の人たちのズルさが透けて見えてきてしまうのです。学生という無責任でいられる状況のときには、社会に対して反発し、いざ生活がかかるようになるとあっさりと大人に迎合する姿勢に不快な気持ちになっていました。桑田さんの歌詞からもそのような憤りが感じられました。この歌を初めて聴いたとき、あまりに感激してCDを購入したほどです。

この歌を知ったきっかけは、桑田さんの「孤独の太陽」という歌をなにかで聴いたことです。基本的に僕はバラード調の歌が好きなのですが、「孤独の太陽」は僕の感性にピッタリくるバラード調の歌でした。そして、その歌を探していたときに、たまたま出会ったのが「真夜中のダンディ」でした。

あとから思い出したのですが、「真夜中のダンディ」はテレビでも宣伝もしていました。しかし、そのときはこの歌の魅力が伝わってきておらず、スルーしていたのです。いつも思うのですが、歌に魅力を感じるときってタイミングがあります。なにか心にその歌が入り込むキーのようなものがあり、たまたまそのキーがピッタリとはまったときに魅力を感じるのかもしれません。

「真夜中のダンディ」の歌詞を真剣に考えていきますと、「人はいったい、どこまで他人に対してサポートすればいいのだろう」もしくは「できるんだろう」という難問にぶつかります。先ほどぼくは、一世代前の人たちに対して批判しましたが、「隣の空が灰色」だとしてもなにからなにまで手を差し伸べるのは現実問題として不可能です。

やはり、自分の好きなことや楽しい生活を我慢してまで「灰色の空の下」の人たちに手を差し伸べることはできません。そこまでの良心の持ち主ではありません。だからと言って、なにもしないでいるのも心のどこかに罪悪感のようなしこりを持ってしまいます。もちろん親友とか親戚とか親しい人が困難に陥ったときは躊躇することなく手を差し伸べたい気持ちにはなるでしょう。

問題はその境目です。今から20年くらい前、山口県で母子殺害事件が起きました。この事件は文字通り「母子」が殺害された事件なのですが、事件の残虐性とともに遺族であるご主人が心からの訴えを情報発信したことで多くのマスコミから注目されました。

僕が一番記憶に残っているのは、ご主人が裁判を傍聴する際に遺影を持ち込もうとして、裁判所から拒否された際に発した言葉です。ご主人は遺影を両手で持ち「僕は、あかの他人のために涙は流さない」と涙ながらに訴えていました。「どうして当事者が遺影を持ち込むことができないのか」と異議を申し立てていました。

この事件をきっかけにして、その後被害者が裁判において意見を陳述できるようになりました。

「真夜中のダンディ」からは世の中の不公平さに対して憤る気持ちが感じられますが、実はこの歌で僕が心を動かされるのは最後の歌詞のこの部分です。

♪可愛い妻は身ごもりながら
♪可憐な過去をきっと憂いてる

どうです。最後は自分の生活感に戻ってきています。僕はこの部分にくると、なぜかこみ上がってくるものがあるのです。えっ、ゲロじゃないですよ(^_-)-☆


それでは、また次回。

「Too far away」

水越恵子
アルバム:「Aquarius(アクエリアス)1994年5月25日
シングル:1986年5月1日


この歌との出会いは有線放送でした。ラーメン店時代、僕は店舗に有線を導入していたのですが、ある日の休憩中に突然この歌が流れてきました。ゆっくりとしたメロディーに本当にシンプルな歌詞。「愛」というものを純粋に歌い上げた歌詞で、その歌詞にピッタリなメロディー。心に真っすぐに入ってきました。

 

おそらく邪な心の持ち主の人からしますと、この歌詞はあまりに純粋すぎて嘘っぽく感じるかもしれません。中には、蕁麻疹が出てきそうな人もいるかもしれません。「愛」とはそんなに単純なものではなくて、もっと複雑でいろいろな思いや考えが絡み合いグジャグジャになったもので、ときには損得計算が伴うこともあります。そうしたカオスであるはずの愛を純粋に描いた「Too far away」に賛同できない人がいてもおかしくはありません。

 

しかし、僕のような純粋な人間(^_-)-☆にしてみますと、そうしたいろいろな要素、ときには悪い要素も含んでいるかもしれませんが、そうした愛だからこそ、素朴で純粋にとらえるのが真の意味で究極の捉え方だと思います。初めて聴いたとき、もちろん僕は題名を知りませんでした。もし、その1回だけで終わっていたなら、僕はその歌の題名を知ることもできなかったかもしれません。しかし、当時その歌は人気のある歌だったようで、その後、たびたび流れてきました。

 

そうしたある日、僕は題名を知りたくてたまらなくなり、ついに有線に問い合わせました。

「あのぉ、今流れている歌のタイトルを知りたいんですけど…」。

担当の方が教えてくれたのが「Too far away」でした。


この歌は、午後2時頃のお昼の忙しさが一段落したときに聴くのが一番心に響きます。そんなある日、この歌が流れてきたのですが、前奏がいつもと違うような感じがしていました。そして、流れてきた歌声を聴いて驚きです。なんと女性の声だったのです。しかも、こう言っては失礼ですが、それまで聴いていた歌声よりも感動が高まったのです。

 

実は、僕が最初に聴いたのは谷村新司さんの歌声でした。そして、あとから聴いた「Too far away」は水越恵子さんの歌声でした。そうなのです。この歌は幾人かの人がカバーしていたのでした。そんな中でも水越恵子さんの歌声が図抜けてこの歌にピッタリとはまっているように感じました。

 

のちになにかの記事で読んだところによりますと、谷村さんは水越さんの歌を聴いて「自分もカバーすることにした」そうです。それ以来、僕はずっと水越さんの「Too far away」を聴いているのですが、数年前自分が思い違いをしていることを知りました。

 

僕の中では水越さんはシンガーソングライターと思っていました。ですので、この歌も水越さんの作詞作曲で、その歌を谷村さんがカバーした、と思い込んでいました。しかし、これもネット世界、YouTube の功績ですが、水越さんの「Too far away」を検索しているときに、たまたま伊藤薫さんという方がこの歌の作詞作曲者であることを知りました。

 

伊藤薫さんという方は、1972年にフォーク歌手としてデビューをしたあと、1976年より楽曲提供の道に進んでいます。たくさんの有名な方に歌を提供しているのですが、一番有名なのは欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」でしょうか。この歌も純粋なラブな歌ですが、伊藤さんはこういう歌が得意なようです。

 

提供した歌手の方々をみますと欧陽菲菲さんのほかに杏里さん、石川さゆりさん、石川ひとみさん、今バラエティーで引っ張りだこの梅沢富美男さん、小柳ルミ子さん、桜田淳子さん、高橋由美子さん、天童よしみさん、といった錚々たる名前が出てきます。おそらく業界ではかなり有名な方だったのしょう。

 

「Too far away」はいろいろな方がカバーしていますので時系列で整理しますと、1979年に水越さんが「アクエリアス」というアルバムの中で発表します。その後1986年にシングルで発売し、それを聴いた谷村さんが1988年に「Far away」という題名で発表しています。発表時期で言いますと、水越さんの1970年が最初なのですが、ヒットはしていません。また、1988年にシングルで発表したときも同様です。この歌に注目が集まったのは谷村さんがカバーしたことがきっかけです。

 

人間の運命も不思議ですが、楽曲の運命も不思議です。これほどの名曲でありながらタイミングと言いますか、きっかけがなければ売れないのです。ちなみに、YouTubeでは現在(2021年4月)水越恵子さんの再生回数が約776.2万回で、谷村さんは約22.8万回となっています。YouTubeには同じ歌をアップしているほかのチャンネルもありますので、このほかにも再生されていますが、そうしたことを総合的に鑑みても水越さんの歌が人気を集めているようです。

 

本当に不思議ですよねぇ。水越さんの「Too far away」は最初に発表されたとき、どうして売れなかったのでしょう。めぐり合わせと言ってしまえば簡単ですが、人間の及ぼせる力ってたかが知れていますよねぇ。

 

また、次回。

 

バス通り

「バス通り」
甲斐バンド
1974年11月4日に発売

 

どういった経緯でこの歌を知ったのか、全く記憶にありませんが、甲斐バンドのデビュー曲です。発売時期は僕が高校生のときです。当時、僕が歌を知るルートはほとんどが妹経由だったように思いますので、妹に勧められたのかもしれません。この歌の一番好きなところは、なんと言っても出だしの歌詞です。

 

♪鞄をさげて
♪目の前に現れ
♪おじぎをして
♪微笑んだ時に

 

この歌詞を聞いてすぐにその光景が頭に浮かびました。この出だしを聞いて心を鷲掴みにされたのですが、その頃僕は少女漫画にはまっていましたので、それも影響しているのかもしれません。甲斐さんが書いたこの歌詞は、少女漫画の中でまさにかわいらしい女の子が登場してきそうな雰囲気が感じられます。

 

僕が好きだった少女漫画家の一人に田淵由美子さんがいるのですが、なぜか「クロッカス咲いたら」というタイトルまで覚えている漫画があります。もちろん描くことはできませんが、頭の中にはそのイラストまでもが残っています。

 

そのほかに好きだった漫画家は陸奥A子さんです。なんとなく素朴な雰囲気が好きでした。そして、その系統の先にいたのが「小さな恋のものがたり」を描いていた“みつはしちかこ”さんでした。陸奥A子さんをもっと純粋で無垢にしたような感じの漫画でした。

 

小さな恋のものがたり」は社会人になってからも、なんなら結婚してからもずっと読んでいました。反対に考えますと、それほど長く続いていたほうが凄いことですが、一応2014年に完結したことになっており、結局約50年続いていたことになります。

 

この漫画は“チッチ”という背の低い女の子と“サリー”という長身イケメン男の子との恋愛模様を描いた4コマ漫画です。つまり、初恋ともいえそうな恋愛漫画が50年続いていたのですから、なんとも凄いお話です。

 

僕にはこのほかにもずっと読み続けていた漫画がありました。ジョージ秋山さんが描いていた「浮浪雲」という漫画ですが、大学時代に読むようになり、社会人になっても、そしてラーメン店を開業したあともずっと読み続けていました。ある意味、“意地”で読み続けていた部分もありましたが、浮浪雲も20年~30年くらい読んでいたように思います。

 

話を甲斐バンドに戻しますと、「バス通り」で心を鷲掴みにされた僕は、このほかの歌にも惹かれていきます。「男と女のいる舗道」はバイトしていた花屋さんの忘年会でアカペラで歌ったような記憶があります。

 

しかし、甲斐バンドが本当に世間に知れ渡ったのは「HERO(ヒーローになる時、それは今)」でした。1979年に大手時計メーカーのCM曲として発表されたことで一躍世の中に知れ渡りました。甲斐さんはアウトローと言いますか、マスコミ嫌いを前面に出すタイプのアーティストでしたので、そうしたことも相まって一気に大物歌手の仲間入りになったように思います。

 

なにかのラジオ番組で吉田拓郎さんとの対談をしているときに、「最もシンプルなコード進行でヒット曲を作るのが拓郎」と甲斐さんが笑いながら話していたのを覚えていますが、音楽の知識を持ち合わせていない僕が、そのときに初めてコード進行というものを意識するようになりました。

 

その意味で言いますと、僕は甲斐さんのコード進行が心の中に入りやすい体質のように思います。100万$ナイト(武道館ライブ)というライブ盤のアルバムがあるのですが、このアルバムに収められている楽曲はすべてが僕の中に染みこんでいきます。

 

実は、妻もこの同じアルバムを持っており、つき合い始めた頃に甲斐バンドで話が盛り上がった思い出があります。今では考えられないですが、当時は素直で純朴な妻でしたのでお互いの同じ感覚・感性を喜び合っていたものです。懐かしい思い出…。

 

このアルバムはすべてが名曲なのですが、その中で敢えて一つを選べと言われますと「嵐の季節」かなぁ…。もう長いこと行っていませんが、以前妻と娘の3人でよく行っていたカラオケでは必ず熱唱していた歌です。でも、やっぱりこのアルバムは全部が名曲だな…。

 

甲斐バンドにはまるきっかけとなった「バス通り」は、僕の中の70年代を象徴する歌詞とメロディーです。

 

それでは、また。

「悪女」

中島みゆき
1975年11月16日の『第6回世界歌謡祭』にてグランプリを受賞。同年にシングルが発売され、20万枚のヒット。


今の若い人ですと「糸」が一番わかりやすいでしょうか。「悪女」は中島みゆきさんの70年代のヒット曲です。中島さんのデビューは、ちょうど僕の学生時代と重なるのですが、今回このエッセイを書くにあたり調べていたところ、自分が勘違いをしていることがわかりました。

 

悪女の歌詞には、暇で時間を持て余している主人公の行動が書いてあるのですが、その中に

 

♪土曜でなけりゃ 映画も早い
♪ホテルのロビーも いつまでいられるわけもなし

 

とあります。僕はこの歌について調べる今の今まで、「この歌を深夜に友だちと喫茶店で聴いていた」とずっと思っていました。ところが、この歌の発売は僕が大学を卒業し社会人になったあとだったのです。つまり、学生時代に深夜の喫茶店でこの歌を聴くことはできなかったはずなのです。それにもかかわらず、僕はずっと深夜に喫茶店でこの歌を聴いていたと思い込んでいました。

 

なぜ勘違いをしていたかといいますと、実に単純で恥ずかしいのですが、先ほど紹介しました「歌詞の」せいです。歌詞をそのまま自分の行動と結び付けていたのです。中島さんの歌発表年次に合わせますと、僕が深夜に喫茶店で聴いていたのは「悪女」ではなく「わかれうた」だと思われます。年次的にはその歌が一番合致します。

 

“勘違いついで”といってはなんですが、中島さんについての僕の頭の中に残ってある記憶を書きたいと思います。

 

中島さんは一般の人がプロになるための登竜門というべきポプコンという音楽祭で優勝してデビューしています。なにかで読んだのですが、中島さんは音楽祭に応募する前に主催者側に「歌に順番をつけるのは間違っている」と手紙を書いたそうです。それに対して主催者側が「中島さんが納得できるようなきちんとした返答」をしたことで出場を決めたそうです。結局、優勝したのですが、中島さんの生真面目さが伝わるエピソードです。

 

もし、記憶違いでしたら申し訳ありません。

 

それはともかく…、年代の記憶違いとはいえ、「悪女」が僕の最も好きな歌のひとつであることには変わりはありません。この歌のなにが心に刺さったかといいますと、まずは出だしの♪タンタタンタタンのメロディーです。この出だしを聴いただけで気持ちが高まります。

 

歌詞の全体像を説明しますと、彼氏と別れる話がテーマなのですが、自分が悪女になることによって、彼氏が自分よりもふさわしい彼女に惹かれるように仕向ける内容になっています。なので「悪女」なのですが、実は「悪女」は彼氏思いの「心優しき女性」なのです。

 

こういう人知れず他者のために行動している女性には感動します。ですので、この歌はシングルでチャート1位にも輝いています。曲の勘違いではありましたが、僕が学生時代に中島さんの歌を好んで聴いていたのは事実です。学生時代、深夜の喫茶店で中島さんの歌声をよく聴いていたものです。

 

僕の学生時代は深夜、といいますか、24時間営業をしている喫茶店は数えるくらいしかありませんでした。しかも、夜の10時か11時を過ぎますと、値段があがるのです。10%とか20%というお話ではありません。3~4倍くらい値上がりするのです。300円のコーヒーが深夜になりますと、1500円とか2000円くらいになるのです。そういう時代でした。

 

こう書きながら、曲名を間違えた前科もありますので記憶違いの可能性もなきにあらずですが…。

 

値段の上がり具合はともかく、深夜の値段が上がったのは間違いません。そのような時代に友だちとただただ喫茶店でおしゃべりをしていたのです。なんと呑気な人生を送っていたことでしょう。

 

呑気といいますと、学生時代に僕が一番時間を費やしていたのは麻雀でした。これまでのコラムでも書いていますが、高校時代にクラブ活動に明け暮れ、それ以外の活動をしたことがありません。土日もクラブ、春休み夏休みもクラブ活動でした。まぁ、運動少年の僕としてはそうした生活が嫌いではありませんでしたが…。

 

反対に言いますと、もしクラブ活動をしていなかったなら、僕の高校生活はどんなふうになっていたのかと恐怖に思うこともあります。その意味においては、運がよかったと感謝しています。

 

なにに感謝かといいますと、僕を強引にクラブ活動に誘ってくれた一年先輩のヒロセさんにです。これも大分昔、コラムにも書きましたが、僕は一度クラブ活動を辞めています。理由は、一緒に入部した一番親しかった友だちが辞めたいといったからですが、そのクラブはとても厳しい練習だったので、それが嫌だったようです。

 

僕もそのクラブにそれほど強い思い入れがあったわけではありませんでしたので、友だちに合わせるように練習に行かなくなりました。そんなときに、たまたま学食でヒロセ先輩に会い、半ば強引にその日の練習から参加させられるようになりました。

 

おそらく僕の中でも身体を動かすことへの渇望が高まっていたのだと思います。仲の良かった友だちと練習をさぼっていたときは、やることがなにもなくただ友だちとおしゃべりをしたり出歩いたりするだけだったのをつまらなく感じていた頃でした。

 

あれから50年近く経とうとしていますが、たまにヒロセ先輩について思い出すことがあります。それほどあの学食でのヒロセ先輩との偶然の出会いは、僕にとっての大きなターニングポイントでした。

 

あれだけ厳しい練習をしていた高校時代があったからこその、大学時代のチャランポランの生活だったと思っています。そのチャランポランを思い出せてくれる中島みゆきさんの歌声でした。

 

また、次回。